2022.12
『エドガー・G・ウルマー -マイナー映画のために-』(平井克尚、FCLab.Osaka、3080円、試し読み/購入@Amazon)

・紹介文
これまでB級映画の帝王(the king of the B’s)として知られることの多かったエドガー・G・ウルマーであるが、断片的にしか知られていなかったそれ以外の様々な映画的遍歴が、全体像のもと照らし出される。B級映画の帝王としてのウルマー以外にも、イディッシュ映画をはじめとするマイノリティ映画を製作していたことなどが一部のシネフィル以外にも広く知られることになる。本書では、領域(映画におけるジャンル、伝記的人生における地理的空間)横断的な映画遍歴をなしたマイノリティ(支配の状態にない)映画監督エドガー・G・ウルマーのマイナー性(ハリウッドメジャー映画に対して)の諸相を論じる。
・目次
序
第Ⅰ部:初期
第1章:『日曜日の人々』(1929)―その製作経緯を中心に―
第2章:初期恐怖映画『ブラック・キャット』(1934)―様々な視聴覚的モチーフにより織り上げられるフィルムテク スト、表現主義とバウハウスの衝突―
第Ⅱ部:中期(1):イディッシュ期他
第3章:『グリーン・フィールド』(1937)にみるイディッシュ文化とフィルムテクストとの軋み
第4章:『シンギング・ブラックスミス』(1938)―ユダヤ的伝統と合衆国的成功のあいだに―
第5章:『ライト・アヘッド』(1939)―盲目の孤児に触知される特異な空間―
第6章:ウクライナ映画『コサック・イン・エグザイル』(1938)にみるウクライナ文化とフィルムテクストとの軋み
第Ⅲ部:中期(2):PRC期
第7章:B級映画製作会社PRCと製作における「自由」
第8章:『まわり道』(1945) ―製作の過酷さとフィルムの繊細さ―
第9章:『まわり道』(1945)―分裂病的航海としての旅、過剰なスクリーン・プロセスがもたらす別のリアリティー―
第10章:『まわり道』(1945)―過剰なフラッシュバック、記憶と声―
第Ⅳ部:後期
第11章:後期西部劇『ネイキッド・ドーン』(1954)―ブラックリスティ、ジュリアン・ジメットと共に―
第12章:後期映画『アトランタイド』(1961)―SF、コスチューム・プレイ、西部劇の異種混交における横断的運動―
補遺
第13章:全米結核協会のための短編教育映画They Do Come Back(1940)―ウルマー版とNTA再編集版との差異―
参考文献
初出一覧
あとがき
フィルモグラフィ
・著者紹介
平井克尚
1966年、兵庫県生まれ。京都大学大学院人間環境学研究科博士後期課程単位認定修了(博士)。近畿大学他非常勤講師。
2023.2
『ヴァルター・ベンヤミン -マイナー批評のために-』(平井克尚、FCLab.Osaka、2640円、試し読み/購入@Amazon)

・紹介文
20世紀を代表する重要な思想家の1人として、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)を挙げることに異を唱えるものはいないであろう。映画、写真、メディアを論じる上での古典的基礎文献となっている「複製技術時代の芸術作品」、「写真小史」。都市、空間を論じる上で重要な文献となっている『パサージュ論』。来るべき歴史を考察する上で示唆を与えてくれる「歴史哲学テーゼ」。異文化間のコミュニケーションを考える際にヒントを与えてくれる「翻訳者の使命」などとその刺激的な論考は枚挙にいとまが無い。そしてベンヤミンを論じた文章にしても、テオドール・アドルノ(1903-1969)、ゲルショム・ショーレム(1897-1982)、ハンナ・アーレント(1906-1975)、ジャック・デリダ(1930-2004)、スーザン・ソンタグ(1933-2004)らといった、彼、彼女ら自身が論じられるべき思想家による極めて魅力的なエッセイのみならず、これまでにも数多くのベンヤミンについての著書・論文・エッセイが書き継がれて来た。そして、これからも書かれていくことであろう(「序」より)。
本書では、そのようなベンヤミンによる、『パサージュ論』の核をなす「ボードレール論」(「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(1938)/「ボードレールのいくつかのモティーフについて」(1939))を多様な角度から論じる(本論)。補論では、『ベルリンの幼年時代』を構成するエッセイ「皇帝パノラマ館」を論じる。
・目次
序
本論:「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(1938)/「ボードレールのいくつかのモティーフについて」
(1939)
第1章:「遠さの持つ魔術的な魅力」の断念が齎すもう一つの魅惑
第2章:詩的生産を可能とする「貧困の仮装」と内面の空虚
第3章:芸術作品と生活の痕跡
第4章:確信の欠如と演技、仮面の過酷な逆説的関係
第5章:主人公、描写する詩人、描写される卑小な者
第6章:近代の主人公、神話への抵抗、言葉の戦闘
第7章:「打ち捨てられたもの」への視線と新しい美の創出=描出の困難
第8章:打ち捨てられたものの収集
第9章:背後で作動する機械;生産者、機能転換、マイクロポリティクス
第10章:支配の装置;生産者としての作家が切り拓いた地平のネガティヴィティ
補論:「皇帝パノラマ館」
第11章:未来への予感を孕んだ繊細でラディカルなノスタルジー
第12章:追想によって帰還しようとすることの試練
主要参考文献
初出一覧
あとがき
・著者紹介
平井克尚
1966年、兵庫県生まれ。京都大学大学院人間環境学研究科博士後期課程単位認定修了(博士)。近畿大学他非常勤講師。他に、著書:『エドガー・G・ウルマー -マイナー映画のために-』
2024.9
『ヴァルター・ベンヤミン -街路彷徨のために-』(平井克尚、FCLab.Osaka、1760円、試し読み/購入@Amazon)

・紹介文 本書では、ベンヤミンによる、『パサージュ論』の核をなす「ボードレール論」(「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(1938)/「ボードレールのいくつかのモティーフについて」(1939))を幾つかの主題から探究する(本論)。とりわけ街路彷徨の主題からみる。それは、幾つかの映画作品、ジム・ジャームッシュ『パーマネント・ヴァケーション』(1980)、レオス・カラックス『汚れた血』(1986)と共振することにもなる(具体的には本書第4章で触れる)。また補論においては、「複製技術時代の芸術作品」を論じる。
・目次 序 本論:「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(1938)/「ボードレールのいくつかのモティーフについて」(1939) 第1章:視線のない眼 第2章:ユーゲント様式:痕跡の消失の埋め合わせ 第3章:素材の持つリズム:貸し馬車の御者 第4章:Intermezzo:ボードレール的な旅の反復のために 第5章:自由で喜ばしき機械:支離滅裂な動き 第6章:下部構造の表現としての上部構造の精神分析へ 補論:「複製技術時代の芸術作品」 第7章:否定的媒介を欠いた「散漫さ」の肯定 第8章:視触覚的なものの可能性 主要参考文献 初出一覧 あとがき
・著者紹介 平井 克尚 1966年、兵庫県生まれ。京都大学大学院人間環境学研究科博士後期課程修了(博士)。近畿大学他非常勤講師。他に、著書『エドガー・G・ウルマー -マイナー映画のために-』、『ヴァルター・ベンヤミン -マイナー批評のために-』、雑誌『Phantom』
2025.9
『F・W・ムルナウ -知られざる偉大のために-』(平井克尚、FCLab.Osaka、3080円、試し読み/購入@Amazon)

・紹介文 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ-その名は映画史に刻まれながらも、いまだ多くの謎と沈黙に包まれている。本書は、ムルナウの作品に潜む映像的詩性と社会的深層を静かにしかし鋭く照らし出そうとする試みである。 1964年に出版されたロッテ・アイスナーによる初めてのモノグラフィーにより、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウの全体像が概略的に知られることになる。それまで断片的にしか知られていなかった様々な映画的遍歴が全体像のもと照らし出されることになる。つまり、『サンライズ Sunrise』(1927)をはじめとする映画史的に著名な作品の製作のみならず、短く不完全なかたちでしか見ることが出来なかった驚くべき傑作『ファントム Phantom』(1922)の再発見などをわれわれは知ることになるのである。さらに1977年には、エリック・ロメールによって『ファウスト Faust』(1925)の「空間の組織化」の詳細なフィルムテクスト分析がなされ、個別作品に対する詳細な分析も得られることになる。さらにオリジナル素材が探し終えられ、ボローニャのリマジネ・リトロヴァータ・ラボラトリーで各ヴァージョンのすべてのショットが一つずつ比較検討され再構成版を作る遅々として進まぬ作業がなされ、1996年にはルシアーノ・ベリアトゥアにより『ファウスト』の決定版とされるものが公開される(ベルリン映画祭)。それはこれまで流通していた版とはすべてが違うものであった。 以下、各章はムルナウ作品の映像的・思想的深度を探るとともにムルナウの映画が映しだす時代の精神と個人の葛藤を静かに照らし出す(「序」より)。
・目次 序 第 1 章:『ノスフェラトゥ』(1922)-現実の脆弱さ:自然にありうべき映像に漂う超自然的なもの- 第 2 章:『ファントム』(1922)-パサージュ:幻影(ファントム)に憑かれた者の街の彷徨- 第 3 章:『最後の人』(1924)-可動性を得たカメラが可能とした主観的体験とその余白:人称性を欠いたカメラ視線が切り開いた地平- 第 4 章:『最後の人』(1924)-幻のシーン;可動性を得たカメラが可能にする幻視的空間- 第 5 章:『最後の人』(1924)-エンディング・シーン再考-馬車シーンに思いを馳せて- 第 6 章:『最後の人』(1924)-字幕の省略が齎すささやかながらも大胆な衝撃- 第 7 章:『タルチュフ』(1925)-慎ましい移動カメラと固定カメラとの絶妙のバランス- 第 8 章:『ファウスト』(1926)-組織化された動的空間- 第 9 章:『サンライズ』(1927)-ささやかではあるが雄弁で深みのあるものを可能とする移動カメラと光の反復- 補論:『最後の人』(1924)-老ポーターとその時代- 第 10 章:老ポーターに見る脅迫的反復行為と想起の難しさ 第 11 章:第一次世界大戦ドイツ敗戦と君主制の崩壊、中産階級下層の受け止め 第 12 章:老ポーターの没落;無力・孤独、従属・支配 参考文献 初出一覧 あとがき フィルモグラフィー
・著者紹介 平井 克尚 1966年、兵庫県生まれ。京都大学大学院人間環境学研究科博士後期課程修了(博士)。近畿大学他非常勤講師。他に、著書『エドガー・G・ウルマー -マイナー映画のために-』、『ヴァルター・ベンヤミン -マイナー批評のために-』、『ヴァルター・ベンヤミン -街路彷徨のために-』、雑誌『Phantom』
